まずは、弥生時代の真間周辺の地図を眺めて下さい。⇒ 
  
  真間の森、大門通りをつきあたり弘法寺の石段を上る。山門の手前を右にゆくと昼でも薄暗い森に入る。ここを抜けると町が一望できる場所に出る。ここから話をはじめよう。想像して戴きたい。縄文時代は眼下に海が広がっていたはずだ。JR市川駅あたりも海底である。国府台や国分の洪積台地だけがぽっかりと島のように浮かんでいた。

 
  これらの台地は、今でも照葉樹林がよく保存されている。カシやシイなどは団栗(どんぐり)を落とす。そして海では魚貝、森では鹿や猪などを獲ることができた。縄文人にとって市川は理想郷であった。堀之内貝塚をはじめ市内で確認された縄文遺跡は夥しい。詩人の宗左近氏は縄文遺跡の集中度は世界最大級であり、市川は宗教的な中心地だったのではないかと想像を巡らしている。真間付近にも貝塚の遺跡がいくつか確認されている。   ⇒真間周辺の貝塚へ
 
時代が新しくなると海岸線は少しずつ沖へと引いていった。海の名残りを見るとすれば、手古奈霊堂の脇にある池くらいであろう。真間川の原型が形成されたのもこの頃である。今はコンクリートに閉じ込められたこの川も、かつては沿岸流とぶつかり砂州を生む潜在力があった。さきほどの弘法寺から眺望すると市川から菅野にかけて黒松が帯のようになっているのがよくわかる。「市川砂州」と呼ばれている。この背骨にに沿って千葉街道(国道14号線)が走っている。この砂州と国府台台地に挟まれた河口の低湿地が「真間の入江」と呼ばれた。東京湾の波浪は砂州に遮られて、 「真間の入江」は船溜りとしては格好の条件を備えていた。

国府台と国分のふたつの台地に挟まれた、「じゅんさい池」から須和田までの低湿地で市川最初の稲作がはじまったといわれている。須和田公園あたりには規模の大きい弥生時代の集落があったことが確認されている。或いは、ここの住人が台地下で稲作を始めたのであろう。「じゅんさい池」は人工的に堰き止められた貯水池であることは発掘調査の結果、判明している。交番の前を通るバス通りがそのままダムになっている。ここで下流の水量を調整していた。かつてこの辺りは「不入斗」(イリヤマズ)と呼ばれていた。地名の由来は諸説あるが、神聖な水源地として立ち入ることが禁じられていたのではないか?
  「じゅんさい池」の畔には「姫宮」が祀られている。「第2章 手児奈伝説」で詳述するようにこれは水を司る女神である。また、いまは暗渠になった平川の下流には「鏡石」と呼ばれる史跡があった。(国分三丁目1番)天保五年(1834年)に刊行された「江戸名所図会」には「鏡石は、弘法寺より国分寺へ行く道の畔にかかる石橋のきわの水の中にあり、この石の根は地中深く入っているので要石ともいっている。」とある。また「東葛飾郡誌」には「夫婦石、鏡石の北西およそ二間、水の中にあって、この石を掘り起こそうとすると血の雨が降る」と書かれている。おそらく、男根と女陰をかたどった一対の石造物であり、五穀豊穣を祈り儀式が行われたのであろう。この鏡石のひとつは市川真間駅に移されたが、本物は行方不明らしく、今は模造品が線路脇に見られる。それは真中が凹んでおり、女性性器を想起させるものである。