荷風さんのこと

戦後まもない昭和二十一年、永井荷風は疎開先から従兄の杵屋五叟一家とともに菅野の借家に引っ越してきた。
それからの荷風は、市川のあちらこちらをしきりと散策している。『葛飾土産』のなかに「市川の町を歩いている時、(・・・)電車も自動車も走っていなかったころの東京の町を思出すことがある。」とある。東京近郊で失われはじめた、荷風のいうところの「日本固有の風景」を市川の町の路傍に求めている。

『断腸亭日乗』や『葛飾土産』に出てくる散歩道を辿ると、手児奈 真間川 弘法寺 亀井院 木内邸 国府台 法華経寺 八幡不知藪、などである。

したがって、散策中の荷風を目にした人も多い。作家の五木寛之が市川に住んでいた頃、京成市川真間駅のホームで荷風を見かけたという。私の父も、菅野駅前にあった八百屋で買い物をするところに出会っている。市川駅前のダイエーの場所は、闇市から発展したマーケットで、ここの「佃幸」という飲み屋の「サッチャン」がお気に入りだったらしい。また、駅の待合室で本を読んでいる荷風の姿もよく見かけられた。なぜ、待合室に?これにはこんな訳がある・・・。

同居しいる杵屋五叟という人は三味線弾きだったらしい。それとラジオ。荷風は隣室からの雑音が苦手だったらしく、火鉢の箸を叩いたりして無言の抗議をしたらしい。ときに、家を出て待合室などで読書していたらしい。「ラヂオに追出されしが行くべき処もなければ市川駅省線停車場の待合室に入りて腰掛に時間を空費す」

そんな具合でここでの生活は一年と続かず、フランス文学者・小西茂也の家など十二年間に四回引っ越しをしている。それでも市川を離れなかった。現・八幡小学校の裏手に新築の家を求めたが、ここが終の棲家となった。

その日、いつものように京成八幡駅前の『大黒家』でカツ丼を食べて、日本酒「菊正」をお銚子で一本飲んで家に帰った。翌朝、家政婦が訪ねると荷風は不帰の人となっていた。胃潰瘍による大量出血が死因と言われている。『アサヒグラフ』に現場検証の写真が流出したりもした。絶筆は『断腸亭日乗』の「四月二十九日。祭日。陰」の一行。

永井荷風 終焉の家.。
中央の門戸は当時のまま
保存されている。
大黒家は現在も京成八幡駅の前で営業中。 最晩年の荷風が通った「菅の湯」。現在も
営業中。