
市川市内には、4基の古墳が現存している。それらは全て、真間から国府台にかけての台地上に分布している。
法皇塚古墳 |
東京医科歯科大の構内にある市内最大の前方後円墳。全長58メートル3回にわたる調査の結果、後円部に横穴式石室が確認された。また、多くの副葬品が発掘されている。甲胄、大刀、馬具、ガラス玉、人物埴輪、家形埴輪などであり、中央政権との関係を連想させるものである。5世紀前半の築造ではないかと推測されている。 |
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明戸古墳 |
里見公園内。箱式石棺2基が露出しており、見学できる。石棺の位置は、横にかなり長い盛り土のような地形の上に位置する。太田道灌や里見氏によって国府台城が構築されたさいに、周辺の古墳を崩して繋げて「土塁」をなしたのではないだろうか。その土木工事の過程で石棺が出土したとも考えられる。伝説では国府台合戦のとき、里見軍は人物埴輪を台地の縁にならべて軍勢を多く見せかけたという。真偽はともかく里見公園周辺には他にも多くの古墳が存在したものと思われる。 |
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弘法寺古墳 |
弘法寺にある前方後円墳。全長43メートル。真間山の崖に接しており、崩落が著しい。崖側に石棺が露出しているという話を聞くが確認はされていない。測量が行われたのみで、出土品等の報告はない。 |
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真間山古墳 |
弘法寺の鐘楼。一般に円墳といわれているが、東側(須和田方向)に盛り土が伸びている。弘法寺を中世の文献に出てくる「市川城」とする説もあり、古墳が切り崩されて土塁として利用された可能性がある。 |
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かつては、この他にも多くの古墳が点在していた。
古くは下総国府や明治以降、軍隊施設の建設により、そのほとんどは消失しているが、かつては「国府台古墳群」と呼べる関東地方有数の遺跡群であったものと推測される。ここには古代葛飾を支配する一大勢力が確かに存在していた。しかし、地方豪族がその任にあたるべき《国造》は古代葛飾には記録がない。政治的空白地帯である。そして、下総国府が忽然として出現するのである。これは市川史の謎である。未完成な大和朝廷と葛飾の豪族はどのような関係にあったのだろうか。服従か?反逆により滅ぼされたのか?