| 一 |
「真間」という言葉は、古代の関東方言で「急傾斜地」を意味していた。アイヌ語との関係も指摘されるが、アイヌ語辞典などには「ママ」、もしくはそれに近い語句は見られない。
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| 二 |
昔、真間川の流域はアシに覆われていた。こういう叢を「やっから」と呼んでいたらしい。手児奈霊堂の他には何もなく、人々が足を踏み入れることもなかったようだ。
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| 三 |
真間山と須和田の台地は、かつては繋がっていた。「鈴木家霊廟」のすぐ裏手が崖だった。大正の耕地整理で、これを切り開いて道を造った。今、元「かどや」か元「花菱理容」へ抜けるなだらかな坂がそれだ。それまで真間の奥に住む人たちは「かどや」から時国坂を上り、亀井院のあたりへ下りてきたそうだ。切り開かれた後には牧場と「朝日キネマ市川撮影所」ができた。真間あたりでロケがよく行われ、銀幕のスターを一目見ようと人々が集まったという。昭和のはじめの頃の話である。また、その土で真間小のあたりの「やっから」を埋め立てた。 |
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真間台地から須和田台地を望む。
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| 四 |
北原白秋は大正5年、愛人の江口章子と亀井院に移り住んだ。しかし、裏山一帯を耕地整理のため切り崩すという工事が行われていた。騒音に悩まされ僅か一ヶ月半で引っ越している。
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| 五 |
じゅんさい池では李香蘭や長谷川一夫が『支那の夜』という映画の撮影をした。李香蘭(山口淑子)が池に入るシーンがあり、近くの家で風呂を借りたりしたらしい。(印旛沼という説もある) |
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| 六 |
真間、国分、国府台の台地の麓からは涌水がよく出た。現役は里見公園下の「羅漢の井」くらいか。これは弘法大師が杓でつくと水がコンコンと湧いたという伝説があるが、大師が唐から持ち帰った知識のひとつが「治水工事」であり、後世これになぞらえたものであろう。国分の「フジキストアー」あたりの台地沿いからもよく水が湧いたという。
手児奈伝説で有名な亀井院の「真間の井」も、もともとは竪掘りの井戸ではなく、湧水だったのではないか。その水を「瓶」(=カメ)で受けていたのが、「亀井」の由来だと考えることができる。
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| 七 |
京成バスの「真間山下」から弘法寺の方へ登る坂の右手は鬱蒼とした森である。ここは「木内邸」といい、木内重四郎という政治家の邸宅であった。東京帝国大学を卒業後、法制局参事官試補となり、貴族院・内務省・農商務省商工局長、統監府農商工部長官を歴任、その後は貴族院議員となった。大正5(1916)年京都府知事となるが、在任中に汚職の嫌疑をかけられ、収監されるが無罪。俗に「豚箱事件」とよばれる。この木内邸は少年時代を国府台下で過ごした中野孝次の『麦熟るる日に』のなかにも「真間川ぞいにヒバ垣で囲まれた広大な空闊地があって、人の住んでいないそこは別荘と呼ばれていた...」として記憶されている。昭和のはじめには既に住人がいなかったようだ。その後、鹿島守之助(鹿島建設)の別荘となったが、やがて社員寮として再利用されるようになった。時計台のある西洋館と、和風の棟が連結した和洋折衷、市川市で最も重要な建築物のひとつである。最近、市川市の教育委員会による敷地内の発掘調査が行われ、弥生から戦国時代にかけての遺構が発掘された。
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| 再建された西洋館 |
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| 八 |
真間小学校の川をはさんだ斜向かいにポンプ施設があるが、このあたりは昭和のはじめまで大きな貯水池だった。ここからJR市川駅南口まで道沿いに灌漑用水が流れていた。駅の南側は梨や桃などの果樹畑だった。今、大野・大町の方で盛んな梨の栽培も発祥はこのあたりである。
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| 九 |
戦後、国分台地の「東練兵場」の跡地で栽培される小麦でパン製造をはじめた人たちがいた。「山崎パン」の創業者・飯島藤十郎もそのひとりであった。京成国府台駅の近くで実姉と一緒にが小さなパン屋をはじめた。江戸川沿いに工場を作り、その後、大いに発展した。この工場で働いたことのある人に話を聞いたことがある。「飯島社長は厳しい人で、ミスがあると朝礼で工場長をビンタすることもあった。」とか。国府台駅近くの第一号店は最近まで営業していたが、現在はシャッターが閉まっている。 |
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| 江戸川河畔の「山崎パン」の工場跡。現在は駐車場だが、立ち入り禁止になっている。 |
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パン工場の脇にはレンガの塀が残っている。味噌工場の跡という話も聞いたことがある。
銚子や野田で醸造業が盛んであったように利根川水系の市川にも江戸時代から醤油や味噌の工場があった。 |
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「山崎パン」の第一号店。国府台駅の裏手の現在は人通りの少ないところにある。最近まで店を開いていたのは老舗の意地か?
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| 十一 |
明治維新後、勝海舟は国会議事堂の建設地の候補のひとつとして、市川の名前を挙げたという。詳細は不明。
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| 十二 |
軍隊の街だった市川には花柳界が形成され、料亭も多かった。今でも「栃木家」「白藤」「大松」が残っている。真間と国府台で200人近い芸者がいた。JR市川駅からまっすぐ歩いて京成電鉄の踏切を渡ったところに千葉県で唯一、芸者置屋の「市川二業組合見番」が残っており、現在でも6人の姐さんが登録している。 |
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| 「市川二業組合見番」 |
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| 十三 |
里見公園は大正10年から10年間、に「里見八景園」という遊園地だったことがある。遊具や動物園、プール、演芸場があり、行楽客で賑わった。しかし、戦争の足音が聞こえてくる頃、閉鎖を余儀なくされた。
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| 太鼓橋や滝、池。八景園の名残り。 |
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| 十四 |
国府台のスポーツセンターの正面左、建物に寄り添うように大きなイチョウの樹が残されている。設計の際に意図的に避けたのだろう。このイチョウの樹は戦前までここにあった「六所神社」の参道の木だと言われている。 |
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| 十五 |
中国分3〜5丁目には「真木の内」という字の地域がある。これは馬の牧場を意味する「牧」の名残りであろう。近くには「馬頭観音」が祀られた祠もある。下総国府をはじめ交通の要所であった市川は馬の産地でもあった。 |
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| 十六 |
左卜全という昭和の名脇役をご存じだろうか?「七人の侍」や「生きる」など黒澤明の作品で異彩を放っている。「やめてけれ、やめてけれ、やめてけ〜れ、ズビズバ」という『老人と子供のポルカ』をひっさげて76歳のときに歌手デビューし、レコードを40万枚売り上げた。彼は晩年、市川に住んでいたようで、しばしば市川駅前で姿を見かけた。現在の「ミスター・ドーナツ」あたりに甘味屋があり、そこの団子をよく買っていた。 |
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| 十七 |
行徳方面の「欠真間」の地名の由来には諸説あるが、@国府台の合戦で敗れた武将が身分を隠して開墾した土地。A真間の崖が崩落して堆積した土地、などである。推論の域はでないが後者ではないだろうか?里見公園の下あたりは眼下に江戸川が迫り、台風や地震をきっかけに土砂崩れを起こしたのではないか?関東地方の洪積台地は関東ローム層が堆積しており、思いの外、脆い。 |
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| 十八 |
国府台の市立第一中学校に隣接して「千葉県血清研究所」がある。終戦直後の昭和21年に設立される。前身は「陸軍軍医学校中山出張所」である。つまり戦時下に中山競馬場の馬を使って、南方戦線の兵士のための血清ワクチンを大量生産していた組織である。
勿論、この陸軍軍医学校(防疫研究所)は「731部隊」の母体でもある。戦後、731部隊の研究員が設立した「ミドリ十字」が血液製剤でエイズ問題を引き起こしている。
「千葉県血清研究所」は平成14年に閉鎖されたが、その出自には忌まわしい記憶がつきまとう。
敷地内には旧陸軍の現存する唯一の歴史的建造物である発電所跡が残されている。 |

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中央のレンガ造りの建物が旧陸軍の発電所。 |
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